<涙>

彼女達がウィーンにきてもう4日になる。
早いものだ。
早くあの場所に行かなくてはと思うが、なかなか決心がつかない。
あの場所に行くのは辛い。
だが、行かなくてはと思う。
それが彼女との約束だったから。

「あれ?亜都先輩たちは〜?」
エーディトがグスタフに聞く。
広いリビングには、今彼一人しかいなかった。
「彼女達なら、自分の部屋に戻っていきましたよ。
だいぶ、疲れているみたいですから。」
「お兄ちゃんが、毎日連れ出すからじゃないの・・。」
残念そうな顔で、エーディトが言う。
エーディトは亜都に会ってから、ずっと亜都について回っている。
結花にはそんなに近づいてはいない。
結花自身、外国人が苦手ということもあるだろう。
しかし、どことなく兄に遠慮しているような気がする。
「まだ、そんな関係ではないのですがねぇ。」
そう思い、そんなエーディトを見ながら苦笑する。
「とはいえ、家でじっとしているわけにもいかないでしょう。せっかくウィーンに来てもらったのに。それに、エーディトが毎日亜都さんについて回るから。」
痛いところをつかれて、エーディトが黙る。
不満そうに頬をふくらます。
まだまだ子供だ。
しかし、それでいて鋭いところを持っているのだからやっかいなものである。
その時、亜都がリビングのドアを開いて部屋に入ってきた。

エーディトと亜都は楽しそうに話している。
おしゃべり好きが二人そろえば、話に花が咲かないわけがない。
しょうがないですねぇと思いつつ、一人でコーヒーを飲んでいた。
二人の話には、当然ついていくことはできない。
もちろん、参加しようと思えば出来ないこともないが、元々寡黙な質のグスタフはしゃべろうと思わなかった。
何より、亜都の関西弁はまだ彼にとっては聞き取りにくいのである。
エーディトはそこを感性で補っているのだが。
「あ〜〜っ!忘れとったっ!」
亜都が突然大きい声をあげた。
「どうしたんですか?亜都さん。」
さすがに驚いて、グスタフが聞いた。
「うち、飲み物もらいにきたんやった。あ〜〜、結花、まっとるやろうなぁ。」
彼女がリビングに来たのはそういう理由だったのですねぇと変に納得してしまった。

「飲み物?」
エーディトが口を挟む。
「何がいい?」
そういって立ち上がる。
「うちは、バナナジュースがええな♪」
亜都がさらに言う。
「結花には、アイスティーか何かがええとおもうんやけど・・・。」
そう言ってグスタフの方を見る。
おねだりをするような感じになる。
「はいはい、わかりました。私が持っていきますよ。」
そうグスタフが答えると、亜都が嬉しそうににんまりと笑った
。 はじめからこうすることを狙っていたのかもしれない。
「そうする?じゃ、バナナジュースだけでいいのね?お兄ちゃんは、結花先輩とゆっくりしてくればいいし。」
エーディトもおかしそうに言う。
この二人を相手にして勝てないことは、この4日間でいやというほどわかった。
「それでいいですよ。」
軽くエーディトを睨む。
しかし、その視線にもおくすることなく、彼女は笑っていた。

アイスティーは家の冷蔵庫の中にあった。
ウィーンには麦茶なんてものがないから、せめてと思って彼が用意したものである。
二つグラスを持って来て、アイスティーを注ぐ。
それをおぼんにのせて、長い廊下を歩いていく。
廊下の窓から差し込む日光の日差しはまだ暑く、せっかくのアイスティーがぬるくなってしまわないかと気になる。
風は外で穏やかにふいているようで、木々のこずえがさらさらと気持ちのいい音を立てている。
もう4日になるんですねと思う。
残された時間は少ないと思う。
早く・・・そう思うが、結花を前にすると決心が鈍る。
この娘は私を受け入れてくれるのか。
そう不安になる。
それに何より、あの話を聞いてこの娘はどう反応するのだろうか。
そう思うと決心は自然と鈍り、言えなくなってしまう。
長い廊下を日差しを避けながら歩く。
そのうちに結花達の部屋についた。
この客間は長い間使っていなかったが、久しぶりのお客を迎えた。
ここを準備するときの管理人の嬉しそうな表情は忘れられない。
高校を卒業したら、戻ってこようかなと思う。
コンコンッ。
そう小気味いい音を立てて、ドアをノックする。
中からは返事がない。
コンコンッ。
もう一度ノックをする。
やはり返事はない。
おかしいなと思って、しばらく時間をおいてもう一度ノックをした。
しかし、これでも返事がなかった。
「失礼しますよ、結花さん。」
そう言ってはいってみたものの、結花の気配が部屋の中にはなかった。
バスやトイレにいる様子でもなかった。
不思議に思いながら、おそるおそる部屋の中に入った。
よく見ると、寝室の方のドアが開いている。
入るのはさすがに失礼かなと思ったが、結花がどこにもいないので、入ることにした。
「失礼しますよ。」
小声でそういって、寝室に入った。
結花がベッドの上にあお向けになって寝転んでいた。
す〜、す〜、という気持ちのよさそうな寝息が聞こえる。
部屋の窓からすずしい風が吹き込み、結花の前髪を揺らしている。
「疲れているんですね・・・。でも、これじゃぁ、風邪をひいてしまいますよ・・・。」
そう思い、飲み物をサイドテーブルにおいて、窓をしめた。
いくら夏とはいえ、風にふかれっぱなしでは風邪をひく。
窓を閉めて、ふりかえると結花がいる。
寝ている結花の姿も可愛かった。
こんなに無防備な表情をして・・・。
そう思うと、覗き込んでいる自分に罪悪感を感じる。
「まずい。あっちの部屋で待っていよう。」
自制しなくてはならないなと、考えて寝室を出ようとした。
「先輩待って!」
その時、後ろで結花が言った。
小さな消え入りそうな声だったが、びっくりして振り返った。
しかし、結花が起きた気配はない。
「行かないで…」
そうまた結花が言った。
どんな夢を見ているのだろう。
そう思いながら、グスタフはまた彼女に近づく。
「行かないで…」
もう一度、結花が言った。
目から涙がこぼれている。
何を見て、泣いているのだろう。
私の夢なのだろうか?
私が彼女を泣かせている夢なのだろうか?
そう思うと切なくなった。
「どこにもいきませんよ。結花さん。貴女が私を必要としてくれるのなら。」
そう小声で言った。
「結花さん。」
もう一度、結花の名前を呼ぶ。
その声で目が覚めたのか、結花の目がひらいた。
「結花さん?どこか調子でも悪いのですか?」
さきほどのセリフを言えるわけでもなく、彼は心配そうにそう言った。
ひどい夢だったのだろう。
まだ涙が出ているのが見える。
「え、そんな事ないです。」
結花はそう言いながら、手で涙をぬぐった。
「ちょっと、疲れて寝ちゃっただけです。」
どう見ても、大丈夫そうには見えない。
だが、これ以上は聞ける気配ではなかった。
「…ならいいのですが。飲み物を持ってきたのですが、どうしますか?」
まだぬるくなってないといいのですがねと心の中で思う。
アイスティーの中に入れてきた、紅茶の氷もほとんど溶けてしまっていた。
「あ、いただきます。」
グスタフの手からグラスを受け取って、結花が一口飲んだ。
「亜都ちゃんはどうしたんですか?」
少し頭がはっきりしてきたのだろう。
「亜都さんはエーディトと話し込んでしまってますよ。ですから私が変わりに持ってきたんです。」
半分は本当なのだが、半分は嘘だ。
どことなく困ったように言ってしまった。
「二人ともお喋り好きですもんね。」
結花がにこにこしながら、言った。
どことなくその笑顔にも無理があるような気がする。
一体どんな夢をみたのだろう。
「冷たくてすごくおいしいです。」
そう明るく結花が言った。
それからしばらく雑談をしていた。
今日見に行ったメルクの修道院や、昨日、亜都が目を回していたシェーンブルン宮殿など・・。
しかし、やがて沈黙が訪れてしまった。
何度か、あの場所に行くことを言いたかったが、結局言えなかった。
「あ、亜都ちゃんたちのところに行きませんか?先輩。」
結花が沈黙に耐えきれなくなったのか、そう言った。
「そうですね。」
そうですね。
そう心の中でもう一度繰り返してから、グスタフは立ち上がった。
またいい機会を逃したのかもしれない。
だが、言えなかったものはしょうがないだろう。
グスタフは、結花と一緒に部屋を後にした。


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