<過去への小道>
「どうしようかと思ったのですが・・・。」
グスタフは結花に向かって話している。
ウィーンにきて5日目の夜のことである。
夕食が終わり、今日もエーディトと亜都がおしゃべりをはじめていた。
結花はひとり夜のベランダに出ている。
「明日、一緒に行ってもらいたい場所があるのです。」
そう結花に言った。
もっと早くに言うつもりだった。
早くあの場所に結花と行くべきだと最初は思っていた。
だが、やはり決心は鈍っていた。
恐いという感情があった。
それにまた失ったらという気持ちもあった。
だから先延ばしにしてきたが、もう5日目。
これ以上先に延ばす事はできない。
これ以上、延ばしてしまえば、一生チャンスはこないかもしれない。
そう思った。
だから、やっと切り出す事が出来た。
「えっ?!ふ、二人でですか?」
結花が言う。
この娘はまだ何も知らない。
あの場所で話すことを聞いた時、この娘はどういう反応をするだろう。
そう思うと、恐くなる。
「そうです。二人だけで行きたい場所があるんですよ。」
努めて落ち着いた声で言う。
「わ、わかりました。」
そう顔を赤らめて、結花が言った。
「ありがとうございます。明日のお昼ごろ、一緒に行きましょう。」
そう穏やかに言った。
次の日は快晴だった。
きもちよく晴れ上がり、さわやかな風がウィーンの街を吹き抜けている。
夏にしてはすごしやすい日だった。
「さぁ、行きましょうか。」
グスタフが結花を誘う。
「は、はい。」
そう緊張して結花が返事を返してくる。
何かしら、グスタフの様子のおかしさを感じているのかもしれない。
亜都はエーディトと伴に、買い物に出ている。
その後、シェーンブルン宮殿を見学してくると言っていた。
今日は絶好の観光日和だ。
あの二人は楽しめるに違いない。
グスタフはそう思う。
楽しんで欲しい。
亜都にはここまで結花を連れて来てもらったのだ。
いくら感謝してもしきれない。
そう家を出る間近に思った。
「先輩。今日はどこに行くのですか?」
沈黙に耐えれなかったのか、車の後部座席に二人で座ったころに結花が聞いてきた。
運転手の方も今日は幾分緊張しているような、硬い表情をしている。
「すぐ近くなのですがね。10分くらいで着きますよ。」
そういって誤魔化した。
また沈黙が支配する。
結花は居心地が悪そうだ。
そんな結花の姿を見て悪いなと思ったが、これ以上話す事はできないような気がした。
道路は住宅地のためか、夏の午後のためか、ひどくのどかな印象を受ける。
アスファルトに陽光がさし、街路樹は風に揺れている。
あの場所はディスカウ家の屋敷から近い。
その道を10分もいかないうちに目的地に着いた。
道路の脇に車を止める。
二人が車から降り、夏の日差しを浴びる。
降りる時、「2時間くらい時間を。」とグスタフはドイツ語で運転手に言った。
運転手はわかったと無言でうなずき、車を出した。
結花はあたりを見渡している。
かなり気になっているようだ。
無理もない。
「結花さん、こっちです。」
そういって、グスタフがあたりを見回している結花の手を取る。
失礼かなと思ったが、この際、気にしない事にした。
何故、自分でもそういう行動にでたのかはわからないのだが。
「せ、先輩?」
結花は手をいきなり取られて驚いた様子だったが、別に拒否はしなかった。
手のぬくもりがすごく気持ちよかった。
グスタフと結花は、丘の上に続く小道を無言で歩いていた。
結花は手を握られているせいか、真っ赤な顔をしている。
ふと、グスタフが思い立ったように話を始めた。
「この道はなつかしいですね・・・。」
そう日本語でつぶやく。
ドイツ語には「なつかしい」という単語がなく、もし日本に行かなければこの感情もわからなかったのだと思うと、日本に行ってよかった思う。
もっとも何より、この手のぬくもりを感じれる事が日本に行って本当によかったと思える理由だろうが。
「懐かしいのですか?」
結花がやっとのことで声を出す。
「ええ。昔、よくここを散歩したんですよ。」
そうグスタフが答える。
あたりは林になっていて、小鳥の声と、風に揺れる木々の声が耳に心地よく入ってくる。
あの時とは違う。
あの時は想像もしなかった。
またこの道にこようとは。
「もうすぐ目的地ですよ。」
努めて優しく言った。
これ以上、もう考えまいと思ったためでもある。
「あの白い建物ですか?」
結花が林を切るように伸びるこの小道の先に見える白い建物を指差していった。
「ええ。そうです。」
グスタフが言った。
「病院?」
結花が目を前方に向けながら聞いてくる。
「その通りです。あの病院に行きたい場所があるのです。」
グスタフが答える。
あの時のあの場所に。
そして、あの時の誓いを果たすために。
もうすぐ私はあの場所に着く。
グスタフが結花を案内したのはその病院の3階にある病室だった。
病院の受付の人が、グスタフの顔を見るなり驚き、そして結花の姿をみてやや嬉しそうななんだか複雑な表情で
「あの部屋はあのままにしてありますよ。」
と言った。
『ありがとう』
グスタフはそういって、結花を案内した。
3年前と変わらない病院。
そしてあの病室だった。
ドアをグスタフが開く。
後ろには結花がいる。
さーっとドアを開けると部屋の中から気持ちのいい風がグスタフの顔をすぎていった。
病室の窓が開けられているのだろう。
部屋の中は窓からの日差しを受けて、明るかった。
白い壁紙が日光を受けていた。
しかし、この病室には誰もいなかった。
窓際にあるベットには誰も寝てはいなかった。
ただ枕元にある棚の上に写真立てがあった。
結花の部屋のあの写真立てと同じものだ。
「ここです。結花さんと来たかった場所というのは。」
グスタフが部屋の中に入り、結花を招き入れて、ドアをしめてから言った。
「こ、ここですか?」
意外な事で、なんと返事をしたらいいのかわからなかったのだろう。
「そうです。」
そういって、グスタフは結花にベッドの側にある椅子をすすめた。
自分はベッドに座る。
そうして、彼は棚の上の写真立ての写真をみた。
そこには4年前の彼とエリーが一緒に写った写真があった。
二人は幸せそうに写真の中で微笑んでいる。
場所はさきほどの小道である。
結花もその写真を見つめている。
どう思っているだろう。
そんな疑問が口からこぼれそうだったが、順をおって話すべきだと思い直した。
「彼女は私の昔の恋人です。男の方は私ですね。」
「こ、恋人ですか?!」
結花がグスタフの言葉で、写真から目を離し、グスタフの目をみた。
「そうです。もっとも、今はもういませんけどね。」
決心したように、グスタフも結花から目をそらさない。
この事は、もし結花と付き合う事になったとしてもいつかは言うべきことだ。
結花を好きになったのだから、この話は早く聞いてもらう方がいいと思う。
「今はいないって・・・・?」
結花がなんとかききかえしてくる。
「今はもういません。そう。3年前に彼女、エリー・・・エリザベート・サンドはこの病室で亡くなったんです。白血病のためにです。」
グスタフはそういって一呼吸おく。
結花は黙っている。
「長い話になりますけれど・・・・聞いてくれますか?」
いまさらなにをいうのだろうと思った。
だが、結花はうなずいてくれた。
その様子を見て、グスタフは話を始めた。
エリーと、グスタフの長い話を。